昭和50年08月02日 朝の御理解



 御理解 第1節
 「今、天地の開ける音を聞いて目をさませ。」
 御理解 第2節
 「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰でも受けることが出来る。みてると云うことがない。」

 実は私は今日は御理解一節でもない、二節でもない。その真中をこう頂いたのです。ですから、御理解一節と御理解二節がどの様につながっておるかと言う事だろうと思いますから、そういう意味でお話を聞いて頂きたいと思います。今天地の開ける音を聞いて眼を覚ますと云う、是はもう実に是は難しいと云うか、幽玄と云うかその深さ広さは到底わたし共では、分かる由もないです。けれども私は本当な事が分かった瞬間から、この御理解第二節と云うものが生きて來ると云う風に思うのです。
 本当な事が分かるそこからです、その時点をです今天地の開ける音を聞いて眼が覚めたと云うのじゃないでしょうか。本当に私ああ惜しいなあと皆さんの上に、色々思う事があるのですけれどもこりゃまあ、自分の事は分かりませんから、自分の事は棚に上げる様ですけれども、ま一段高い所に居りますから、まあ言わばよく見える訳です。本当に良い信心をなさり精進もなさり、努力もなさっておるのがよく分かるです。
 そこも分かるけどもあれでは精進をしながら、そこの所がどうして分からんのだろうかと思う様な事です。まあこれだけ精進しとるけん、この位の事は良かろうと、云う様なのがあるのじゃないでしょうかね。是はもう一寸した云う事、一寸した行いの上に現れて來る事、それでですね本当に云うなら、もうガラガラと本当の信心が崩れて仕舞うのです。精進がまあ水の泡と言わんにしましても私は水の泡になるです。
 これはねおかげと御神徳は別に考えなければいけません。御利益と御神徳とはね、この御理解第二節は信心すれば誰でも受けるのが神徳だと云う風に説いて御座います。ですから、御神徳を受けられると云う信心は、どう云う事かと云うと、それこそ今天地の開ける音を聞いて眼を覚ました、その時点から行われるところの信心でなければ、言わば信心とは言えないと云う。
  お徳を受ける為の信心とは言えないと言う事です。ですからもう実に惜しいですね信心の云うならば毎日毎日お参りもなさるし、修行も出来ておる朝参りの修行が出来ておる。御理解も頂いていわゆる天地、言わば宇宙の法則とでも申しますか、天地の道理天地の御恩徳も段々解らして頂いて。そしておかげを頂いておるのですけれども、教えて頂いてああ成程なと云うて大事にしておるとか、精進しておるとかでありますから云うならば、こん位は良いだろうと云う様な結果になるのじゃないでしょうか。
 もう合楽で皆さんに聞いて頂く話は、教祖様の御教えのその全てが、氏子信心してどうぞおかげを受けて呉れとおっしゃる。そのおかげ受けて呉れよと云うそのおかげとは、御神徳を受けて呉れよと、そして人間の幸の全てを足らうて行くおかげを受けて呉れよと。この世で有り難い、もったいないの心を開かせて貰うて、その心をそのまま、あの世まで持って行って呉れよ。それならば必ず子孫にも残るのぞと、云う事を教えて居られる御教えばっかりだと思うのです。
 それを手前の所の云うならおかげを頂かんならん、御利益を頂かんならんと云うので、お話を頂く。そして天地の道理とはそんなものかと、云う風に色々分かって行ってです、なら物一つ大切にするに致しましても、事柄を御の字を付けて、御事柄として受けて行く事にも精進する訳で御座います。だからその精進も私から皆さんの上にそれを分かるのです。皆さんの上にその事を精進しておられうと云う事が。
 所がです教えられて、言われて精進しているのですから、所謂この位の事は良かろうと云った様なです、言葉ではっきり言えないでしょうけれども、そげな事を言うてからとか、そんな事をしてからと云った様な事で。言わばおかげは頂いても、御神徳を受ける信心はそれ一つで、ガタガタと崩れて仕舞うている様に思うのです。ですからどうでも、只教えを頂いたからでなくて、教えを頂く事に依ってです。
 今天地の開ける音を聞いて眼を覚ますと云う事はです、まあ最近私が申します言葉で云うならば天地そのものが真であるから、私共は全ての事に真にならなければならないと云う事に尽きるのです。ああしなければならない。神様の御物だから、この御物を大切にせねばいけないと頂きますから。皆さん御物を大事にするし、御事柄を大事に致します。精進する訳です。
 それが見えるです私には。それ程の精進をし続けておりながら、朝参りなら朝参りの修行をさせて頂ながら折角積み上げた、云うならばお徳がそれこそ音を立てて崩れる様な堂々回りをお互いがしておる様な気がするのです。そこでなら今天地の開ける音を聞いて眼を覚ますと云う事は、ギリギリ教えられて行じるのでなくてです、本当な事が解らして頂いたら、行じなければおられない事になって來るのです。
 昨日先日から此処で一夜信心実習会の講師であります沖と云う先生から御礼の葉書が私と秋永先生と二人に来とりました。秋永先生に対して(秋永先生、貰うてもらえたですか)(ハイ、頂きました返事あり)それを見せて貰おうと思うて探したけど、此処にないもん、私に来とるとだけ・それにこう云う事が書いてあります。どの様な小さな事も揺るがせにせず、必然の事せにゃおかげ頂かんからと云うのでは決してない。そうしなければおられんのであると云う事です。
 惟は一つの私は部屋の整頓事でもそうですよ。最近心行をやかましく言われますから、もうよかよかと云った様な、散らかっとるけんよか々と云った様な事じゃなくて、矢張りそれを整頓する、その内容が心行になっておるのです。もう神徳を受ける信心に何時も継ながっておるです。これはもう一日の内にどれ程感じる事があるかも分かりません。タオル一本使わせて頂くにしても、石鹸一つ使わせて頂いても、それこそ疎かに出来ないです。分かるところが分かって参りますと。
 そういう行き方が自然身に付いて來る。そういう信心をするのですから、誰でも御神徳が受けられると云うのです。どんなに教えは守りよると云うても、そこで云える事は、それけん信心は何でんかんでん御教えを守らんならん。とても私どんじゃでけんと云う人があるかも知れんけれども、それをね守らにゃおられない心を頂けと云う事です。それを有難う、勿体のう頂かにゃおられない。それにはです、言わば本当な事が生き生きとして本気で眼が覚めると云うか。例えばなら私の信心で。
 云うならば何十年間信心を続けて来て、随分商売の上でもおかげを頂いて来た。だからそれこそ、おかげを頂いて来たら、御用さえ頂けばそれで済んだ様に思うておる。だからそれで一生終ったんではおかげを受けた、お供えをした、当り前の事じゃもん。プラスになったかと思うともうマイナスになっとる。マイナスになっとるか、プラスになっとると云うだけの事です。終戦と同時に引き上げ。
 そして今までの信心の間違いに実際自分達の難儀に直面した、その姿から感じ取らせて頂いた事は、今までの信心が全部間違うておったと云う事である。そこから初めて眼が覚めた。云うならば、そこから本当な事を愈々分からせて頂こうとする信心姿勢が生まれて来て、そしてここで云うなら成行きを大切にすると云う事は、そのまま神様の御働きそのものを大切にする事だと確信が出来る様になった。
 そこから私が真の信心とはこれだと。私が皆さんに確信を持って言える様なおかげを頂いて来た。そこからと云うものは、今までずるい事もこすい事も商売人じゃけん、この位の事は当り前としてやって来た事がです、本当な事が分からせて頂いたら出来なくなった。と云うたら苦しいごとあるばってん、それをせんで済む様なおかげを頂いた事が有難い。そこからそういう信心から、云うなら自他共に助かる道が今日こうして開けて来たと云う風に思うのです。
 どうぞ皆さん今日はね、御理解一節と二節の合中のところを頂いたから、一節と二節を継ないだら今日は皆さんに聞いて頂いた様なお話になるのです。ですからまあ随分一節二節を頂いて参りましたけれども、一節と二節が継ながらなければ、本当な事にはならない。御神徳を受けられる信心にはならないと云う事になります。どうぞ一つ本当に心の目が翻然として開けれるお繰合わせを願わなければ、いわゆる形のお繰合わせよりも心のお繰合わせを願えとはそう云う事だと思うですね。
   どうぞ。